母親に、何度言っても、同じことが繰り返される。
謝ってくれたと思ったら、しばらくするとまた同じパターンに戻っている。
「なんでこんなに変わらないんだろう」
そう思いながら、それでも関係を続けようとする人は多いです。
けれど、距離を置くという選択肢について考えると、「逃げてる気がする」「親不孝なんじゃないか」という罪悪感がセットでついてきます。
今回は、母親と距離を置くことが、なぜ逃げでも我慢の限界でもないのかを掘り下げていきます。
母親と距離を取ることは「逃げ」なのか

距離を取ることを考える前に、まず整理しておきたい前提があります。
それは、「許すこと」と「我慢して理解すること」はまったく別物だということです。
「許す」と「我慢して理解する」は別物
毒親との関係を扱うとき、最終的なゴールとしてよく語られるのが「許すこと」です。
ただ、この「許す」が「我慢して理解すること」にすり替わっているケースが少なくありません。
「母も大変だったんだから」「仕方なかったんだろう」と自分に言い聞かせて我慢することは、許しではなく抑圧です。
我慢は、怒りや悲しみに蓋をしているだけで、消化できているわけではありません。
本当の意味で許すためには、先に怒りや悲しみをちゃんと感じきる過程が必要になります。
我慢して理解したふりをすることは、その過程を飛ばして、蓋をしたまま前に進もうとしているようなものです。
私も何度も母に直接言いましたけど、最初は「わかってもらえたら楽になる」と思ってたんですよね。
でも実際は、わかってもらうことより、自分の中の怒りを出し切ることの方が大事だったなって、後から気づきました。
直接対決の目的は「わかってもらう」ことではない
母親に直接気持ちをぶつけることを「対決」と呼ぶなら、その対決の目的について考え直す必要があります。
多くの場合、直接対決する理由は「母にわかってもらいたい」という気持ちから始まります。
けれど、何度対決しても母が変わらないとき、本当に必要だったのは「わかってもらうこと」ではなく、「自分の中の恨みを出し切ること」だったりします。
対決の場で相手が理解を示すかどうかは、実はそこまで重要ではありません。
自分が抱えていた怒りや悲しみを、ちゃんと言葉にして外に出せたかどうかが本質です。
境界線を引くことについてもっと知りたい方はこちらの記事もどうぞ。
「わかってもらう」を目的にすると、相手が変わらない限り終わらないんですよね。
でも「出し切る」を目的にすると、相手がどう反応しても、自分の中では終わらせられるんです。
毒親が変わらないのは、変えられる親ならそもそも毒親にならないから
何度言っても母親が変わらないことに、深く傷つく人は多いです。
ただ、ここで押さえておきたいのは、言われて変わるような親であれば、そもそも毒親と呼ばれる関係にはならなかったということです。
謝罪のように見える反応があっても、それが一時的なパフォーマンスで終わり、しばらくするとまた同じパターンに戻る。
このループが続くのは、意志が弱いからでも、伝え方が悪いからでもありません。
変わる力そのものを、その親が持っていないからです。
この前提に立つと、「もう一度言えば変わるかもしれない」という期待そのものを手放しやすくなります。
距離を置くことで、何が起きるのか

対決を重ねても変わらない相手に対して、次に選べる選択肢が距離を置くことです。
ここで重要なのは、距離を置くことと、諦めることの中身の違いです。
何度対決しても同じパターンが繰り返される時
対決を重ねるたびに、期待して、裏切られて、また期待する。
このサイクルを繰り返すこと自体が、自分の消耗につながっていきます。
母親を変えることに使っていたエネルギーを、これ以上そこに投資し続けるかどうかを、一度立ち止まって考える必要が出てきます。
距離を置くというのは、この投資を一旦止めるという判断です。
見捨てることでも、縁を切ることを目的にすることでもなく、これ以上同じパターンにエネルギーを使わないという選択です。
自己否定から抜け出すことについて気になる方はこちらの記事もどうぞ。
「なんでこんなに変わらないの」って、本気で何度も思いました。
でもそのたびにエネルギー使ってたなって、距離を置いてから気づいたんですよね。
距離を置いている間に、自分を育て直す
距離を置く期間は、ただ関係を止めているだけの時間ではありません。
母親に向けていたエネルギーや注意を、自分自身に向け直す時間になります。
自己肯定感は、誰かに認めてもらうことでしか育たないわけではなく、自分で育て直すことができます。
距離を置いている間に、自分で自分を認める練習を重ねていくと、母親からの評価に依存しない土台が少しずつできていきます。
この土台ができてくると、母親との関係そのものへの見方も変わってきます。
距離を置いてる間、最初は罪悪感もありました。
でもその時間で自分を育て直せたから、今があるんだなって思います。
「諦める」には二つの種類がある
「諦める」という言葉には、まったく違う二つの中身があります。
ひとつは、「どうせ言ってもしょうがないから」と、感じることそのものに蓋をして諦めるやり方です。
これは怒りや悲しみを消化しないまま押し込めているだけなので、心の中に毒が残り続けます。
もうひとつは、怒りや悲しみを出し切った上で、「この人はこういう人なんだ」と受け止めて諦めるやり方です。
こちらは消化を終えた上での諦めなので、心の中に残るものが少なくなります。
同じ「諦める」でも、蓋をするか、出し切るかで、その後の心の状態はまったく違うものになります。
距離を置くことは、この「出し切った上での諦め」にたどり着くための時間としても機能します。
まとめ:距離を置くことは、逃げでも我慢の限界でもない
母親と距離を置くことは、関係を投げ出すことでも、親不孝なことでもありません。
「許す」と「我慢して理解する」は別物で、我慢は消化ではなく抑圧です。
直接対決の本当の目的は、わかってもらうことではなく、自分の中の恨みを出し切ることにあります。
何度言っても変わらない相手に対して、距離を置くことは、これ以上同じパターンにエネルギーを使わないという判断です。
その時間を使って自分を育て直すことができれば、母親との関係への見方そのものが変わっていきます。
諦めるなら、蓋をする諦めではなく、出し切った上での諦めを選びましょう。

